琥珀色の世界資産 

 春夏秋冬を10回、20回とくぐり抜けても漏れない熟成用の樽をどうやって作るのか長い間疑問に思っていた。やっとその解答が手に入った。毛利宇宙飛行士の故郷として有名な余市町のほぼ中央に位置しているニッカウィスキー北海道工場でウィスキー作りを体験させていただいたのである。去る1120()21()の二日間、同工場が主催しているMy Whiskyに参加し、つなぎを着て、糖化装置の清掃、蒸留、樽作り、原酒の樽詰め、貯蔵庫への搬送などを体験した。ウィスキー文化に触れ、その奥深さに感嘆させられた得難い時間であった。

 まず、木の割り方が普通の材木とは全く違っていた。70100年もののホワイトオークを斧だけで縦に割っていく。そうすると木目に沿って割れるので、木の繊維が横に切られることがない。そのため、樽の側板(「がわいた」と読む)から漏れることがなくなるという。こうやって出来上がった側板は型押ししながら35年寝かされた後、樽作りに使われる。樽を作るとき、上から見て円形になるようにするため、側板の外側にはカーブが、側面にはテーパーが必要になる。職人さんがそれこそ職人芸で丁寧に削ってつけていく。250リットルの樽を一つ作るのに3435枚の側板が使われる。大変根気のいる作業である。

 職人さんがいくら頑張っても、実際に樽を作り上げるときは側板と側板の間に隙間が少しできてしまう。その隙間はガマ(蒲、因幡の白兎に出てくる草の一種)で目止めをする。このガマさし(ガマ入れとも言う)の作業の善し悪しで漏れないかどうかが決まるという。実際に体験させていただいたが、ガマが隙間にピシッと入っていくのには驚いた。縦に繊維が走っている材料で目止めするのも漏れを防ぐのに役立っているのだろう。このように樽作りには欠かせないガマだが、今では自生しているところが極端に少なくなり、その確保に大変な努力が必要だそうだ。自然の喪失はこんなところにも影響している。

 このようにして作った樽は内側をバーナーで焼き、炭素化する。再利用の樽を焼く場合、アルコールの燃えるうす青色の炎が何ともきれいである。空になったブランデーの瓶に火をつけた経験のある方ならおわかりいただけると思う。

 元々、ウィスキー発祥の地スコットランドでは蒸留しただけでお酒として飲まれていたそうだ(ピリッとし、泡盛に似た味であった)。ところがいろいろないきさつでスコットランドがイングランドに併合され、ウィスキーに高い酒税が課されることになった時、熟成が発見されたそうである。つまり、スコットランドの人たちが酒税逃れのため、作ったウィスキーを地下とか倉庫に隠すようになったのである。時間がたってから取り出して飲んでみると琥珀色のこれまでにない味わいの飲み物に変わっていたという。人智を越えた発見である。その後様々な試行錯誤の末、熟成には樽と自然条件が重要であることが定説となっている。日本語の「風味」という言葉も自然の風の中で育てたときに得られる味という意味ですよ、という林工場長の言葉が印象的であった。

 シングルモルトあるいはピュアモルトクラスのウィスキーになると飲み終わった後、グラスからバニラ香が立ちのぼるとの話だったが、私の鼻ではわからないままだった。ただ、最近ではブランデーなどの影響で香りがもてはやされており、シェリー酒やバーボンを作った後の樽でウィスキーを熟成させることも多くなったそうである。良いことかどうかわからないが、世につれ、人につれであろう。

 この余市工場には樽で眠っている原酒が7960キロリットルあるそうだ。余市から出荷される量は年300キロリットルなので、約26年分のストックがあることになる。巨額の財産を眠らせる必要があり、大変な事業だなと感じた。実際、ニッカウィスキーが事業を開始したときはジュースやジャムの販売で何とか生活費を稼ぎながらせっせとウィスキーを仕込んだそうである。創業当時の社名は大日本果汁株式会社である。先人の努力に頭が下がる。現有の最古の樽は1945年もので461リットル残っており、当地の社員の中では工場長だけが試飲したことがあるそうだ。

 英国のウィスキー評論家Jim Murray(ウィスキー評論家大賞を3度受賞)の著作Complete Book of Whiskyには「余市のウィスキーは世界のベスト6の一つ」であり、「もし日本のすべてのモルトがここのモルトの75%のレベルに達したとすれば、スコットランド人は真剣に危機感を持たなくてはならない」、あるいは「余市のウィスキーは、日本国内よりもむしろ世界の市場で展示するにふさわしい作品である」と書いてあるそうだ。むべなるかなと感じた次第である。

 この行事に参加すると、10年後に自分で仕込んだアルコール濃度約60%のシングルモルトウィスキーを手にすることができる。昨年10年目のMy Whiskyを手に入れた人たちの声をいくつか紹介する。

10年前の誕生日に仕込んで早10年。ウィスキーの成熟にあわせて私の人間性もずっと穏やかになったようで感慨もまたひとしおです。」  

10年の歳月とても速く感じました。平成3年に主人が亡くなりました。誰よりもこのウィスキーができるのを楽しみしていたことと思います。子ども達が巣立つときみんなで飲みたいと思っております。」

「雪の中での作業体験、今でも鮮明に覚えています。10年の歳月を短く感じています。ありがとうございました。」  

「このウィスキーの熟しをずっと待ち望みました。残念ながら、神戸の震災で18年間の店は閉めました。業種を変えて再び商売をしておりますが、あの日の余市の想い出とともに仲間の方々との交流は今も生きております。」  

「年を重ねました。外見的にも内面的にも。良い意味でも、悪い意味でも。」  

「待ちに待ったウィスキーの誕生。本人が元気であったらどんなにか喜んだことでしょう。昨年、夫のいない家族9名で余市工場に眠っていた夫のサイン入りの樽を見せていただきました。元気であったら、このウィスキーを何本求めたでしょうねと家族で話しました。優しい笑顔でウィスキーグラスを傾けていた姿を思い出します。長い間大変お世話になりありがとうございました。」  

「3年前になくなったおふくろが毎年送られてくる葉書を楽しみにしていました。生きていたら一緒に受け取りにいくつもりだったのですが。」

 一日目の門倉課長の挨拶で今回の企画には65名の応募があり、その中から厳正な抽選で20名が選ばれたことが紹介されびっくりした。今回参加されていたテレビ北海道の取締役技術局長に至っては、何度も落ち、長文のお願いの手紙を書いても何の効果もなく、今回は当選した友人の同伴者としてやっと参加できたそうである。ちなみに今回の参加者で北海道在住は私を含めてわずか5名であった。関東はもちろん、名古屋、大阪、神戸からも参加者があった。久しぶりに仕事以外のことで大変楽しい時間を過ごさせていただいた。この拙文を読まれた方に私の感嘆の一部でも伝われば幸いである。

 北がウィスキーのふるさとと信じ、サントリーから別れて余市に工場を造った竹鶴政孝の思い入れが昨今の地球温暖化でどうなっていくのか少し心配ではある。

 自分の手で作った琥珀色の夢と再会するのは2009年である。さて、どんな味がするでしょう。そして、そのときの私は。

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