東京科学大学 総合研究院 化学生命科学研究所

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最新の研究

  • 2021.09.01
  • (旧)藤井研究室

冷却イオン分光法によるシクロデキストリン包接錯体の気相分光 −キラル選択性の解明−

平田圭祐a, c,石内俊一a, c,Zehnacker-Rentien Anneb, c, 藤井正明c
a)本学理学院化学・石内研究室
b)CNRS / U. Paris-Saclay<sup
c)本学科学技術創成研究院I WRHI 兼任

 昨年度より本学理学院化学系・石内教授と共同で研究を進めている。今回の研究紹介では石内研究室の助教・平田圭祐先生ならびにParis-Saclay大教授(CNRS DR1)・本学WRHI特任教授であるAnne Zehnacker―Rentien先生との共同研究を紹介する。この研究は英国王立科学協会誌Phys. Chem. Chem. Phys.誌で表紙を飾り、また、Hot Articleに選ばれているものである。

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 シクロデキストリン(CD)はD-グルコースがa-1,4グリコシド結合によって結合した環状オリゴ糖の一種であり,分子内に空孔を形成する(図1)。この空孔の外部は親水性,内部は疎水性であるため,CDは空孔内に疎水性のゲスト分子を包接するホスト分子としてよく知られている。CDはキラリティを有することから,ゲスト分子が光学異性体を持つ場合,光学異性体ごとにCDへの親和性が異なる。これを利用して,CDを液体クロマトグラフィの固定相に用い,光学異性体を分割するためのキラルカラムとして実用化されている [1] 。しかし,その光学異性体を分離するメカニズムはまだ完全には理解されていない。D-グルコースが7個結合したb-CDは,アミノ酸のような小さなゲスト分子に幅広く適応しているが,b-CDの空孔の大きさは6Åとアミノ酸の大きさ2~3Åよりもはるかに大きく,このように大きなホストが小さなゲストのキラリティをなぜ認識できるのか,明らかになっていない。

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図1 β-CDの構造

 そこで本研究では,極低温イオントラップ赤外分光法を用いて,プロトン化チロシンの2つの光学異性体とb-CDの全てのOH基をメトキシ化したメチルb-CD(b-MCD)の錯体間の相互作用を調べ,そのホスト-ゲスト間の相互作用の違いからCDのキラル識別のメカニズムの解明を試みた。b-MCDを用いることで,CDに由来する複雑なOH伸縮振動バンドを除去し,プロトン化チロシン由来の振動バンドを明瞭に観測することが出来る。

 実験装置を図2に示す[2-3]。エレクトロスプレー法を用いてプロトン化したチロシンとb-MCDの錯体を気相中に取り出し,四重極質量分析器を用いて特定の質量のものを選別し,冷却イオントラップ(~10 K)に捕捉した。ここに水素ガスを導入し,錯体イオンに水素分子を付着させた。そこへ波長可変赤外レーザーを照射すると,赤外吸収に伴い水素分子が解離する。この解離で生じたフラグメントイオン(錯体イオン)を飛行時間型質量分析器により検出した。フラグメントイオン量をモニターしながら赤外光の波長を掃引することで赤外吸収スペクトルに相当する赤外光解離(IRPD)スペクトルを測定した。

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図2 実験装置図

 まずはL体とD体のチロシンのどちらに対してβ-MCDは選択性が高いかを調べるために,L-チロシンとD-チロシンを同量含む溶液にβ-MCDを加えたものをエレクトロスプレーし,質量スペクトルを測定した。プロトン化チロシンとβ-MCDの錯体の質量スペクトルを図3に示す。L-チロシンは同位体置換(13C, 15N)しているため,D体よりも分子量が10大きくなり,チロシンの両錯体を区別することが出来る。D-TyrH+錯体はL-TyrH+錯体の3倍ほど錯形成していることから,β-MCDはD-TyrH+に対して高いキラル選択性をもつことが分かった。

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図3 β-MCDとチロシンの錯体の質量スペクトル

 次にこのキラル選択性の違いがどのような構造の違いによるものかを調べるため,それぞれのTyrH錯体のIRPDスペクトルを測定した。プロトン化チロシンとβ-MCDの錯体のIRPDスペクトルを図4(c)(d)に示す。チロシンやβ-MCDの単体のスペクトル(図4(a)(b))との比較から,3640 cm-1は水素結合していないフリーなフェノールOH伸縮,3430 cm-1は水素結合したフェノールOH伸縮,3300~3400 cm-1はフリーなNH伸縮,3020~3300 cm-1は水素結合したNH伸縮,2700~2800 cm-1は水素結合したカルボン酸OH伸縮振動に帰属した。図4を見ると,チロシンのカルボン酸OHとアミノ基NHがβ-MCDと水素結合を形成している"アミノ結合型"は両錯体で観測された。一方,D-TyrH+錯体では,3430 cm-1に水素結合したフェノールOHのバンドが観測されたことから, β-MCDとフェノールOHが水素結合した "フェノール結合型"も共存していることが分かった。これらの結果は,量子化学計算で得られた理論赤外スペクトルの結果とも一致している。

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図4 (a) L-TyrH+の異性体AのIR-UV dipスペクトル (b)β-MCDH+,(c)L-および(d)D-TyrH+_β-MCDのIRPDスペクトル

 以上の結果から,D-TyrH+に対するβ-MCDの高いキラル選択性は,D-TyrH+錯体でのみフェノール結合型がとれるためだと結論した。そうであるならば,フェノールOHがなければキラル選択性が低下するはずである。そこで,そのことを確かめるために,チロシンのフェノールOHが水素で置換されたフェニルアラニン(PheH+)を用いて図3と同様の質量スペクトルを測定した(図5)。その結果,TyrH+とは異なり,D,L-PheH+錯体はほぼ同じ強度で観測され,D,L-PheH+に対するβ-MCDのキラル選択性は低下していることが確かめられた。従って,β-MCDのチロシンに対するキラル選択は,フェノール結合型を作れるか否かが鍵であることが,実験的にも明らかになった。

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図5 β-MCDとフェニルアラニンの錯体の質量スペクトル

【参考文献】

[1] D. W. Armstrong and W. Demond, J. Chromatogr. Sci., 1984, 22, 411.,
[2] S. Ishiuchi, et al., J. Mol. Spectrosc., 2017, 332, 45.,
[3] S. Ishiuchi, et al., Phys. Chem. Chem. Phys., 2019, 21, 561.

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