RESEARCH

葉緑体ATP合成酵素の調節

  • 1997年度のノーベル化学賞は、長年ATP合成酵素の触媒機構の研究を行って来た米国P. D. Boyer博士とこの分子の各サブユニットの一次配列および分子構造を明らかにした英国分子生物学研究所J. E. Walker博士に贈られました。1997年3月、当時の東工大・資源研・吉田賢右研究室と慶應大学理工学部・木下一彦研究室の共同研究によって明らかにされたATP合成酵素F1のγサブユニットの回転が、この酵素の触媒機構の本質であることが、世界に認められたのです。ATP合成酵素の分子構造は、バクテリアから高等動物のミトコンドリア、高等植物葉緑体に至るまで非常によく保存されています。実際に葉緑体ATP合成酵素のγサブユニットが回転することも、1999年に観察できました。そして、 回転に伴う触媒機構が確定的なものになり、ATP合成酵素は回転するモーター蛋白質として生物物理学の重要な研究対象になりました。現在は、早稲田大学理工学部に移られた木下先生や、回転実験を最初に成功させて大阪大学産業科学研究所教授になった野地博行さん、学習院大学の西坂崇之さんらを中心に、このγサブユニットの回転を引き起こす分子機構、回転の調節機構、およびサブユニットの回転とプロトンの輸送を結び付ける機構の解明の研究が行われています。この回転分子モーターを徹底的に解明することを目指して、2006年には文部科学省特定領域研究「膜超分子モーターの革新的ナノサイエンス」(代表 野地博行大阪大学教授)も発足し、2010年3月まで活動をともにしました。
  • さて、生物がATP合成酵素を使って必要なときに必要なだけATPを生産するためには、この酵素の活性制御が重要です。すなわち、回転を制御するわけですが、この制御機構を研究する上で、もっとも重要な材料は葉緑体のATP合成酵素CFoCF1です。植物のATP合成酵素は、光によって形成されるチラコイド膜内外のプロトン濃度勾配を駆動力としていますが、暗所では単に反応が進行しないだけでなく、酵素が不活化されます。この活性調節の機構は、回転子であることが証明されたγサブユニット上のS-S結合の形成・還元によって行われる事、このS-S結合の形成に与るシステイン残基がCF1に4個あるシステインの内の199番と205番である事が、既に1980年代に明らかにされています。すなわち、このγサブユニットはS-S結合の形成と切断によって分子構造を直接変えることで、その「回転」を調節している訳です。回転の調節機構は、回転の分子機構と不可分の関係にあるはずで、この調節機構を分子レベルで解析することは非常に重要です。
  • これまで、ラン色細菌や緑藻など形質転換が可能な光合成生物を用いて、このγサブユニットのシステイン残基領域を調べた例はありますが、光合成生物のATP合成酵素では、大腸菌などで行われている遺伝子レベルでの変異導入を行っても、活性のある複合体をリコンビナントサブユニットから再構成することが出来なかったために、分子レベルでこの領域を調べた例がありませんでした。  私たちは、このγサブユニットに起こる構造変化の実体を明らかにする事を目的として、1997年、大腸菌体内での同サブユニットの大量発現系を構築し、その回転活性を評価する実験系として好熱菌の触媒サブユニットとの再構成系を開発しました。さらに、このリコンビナントγサブユニットに変異を導入してシステイン残基近傍の領域の役割を探索したところ、この部分の構造変化が、CF1のもう一つの活性制御サブユニットであるεサブユニットと酵素分子本体との結合解離に直接反映することを見出しました。
  • 2000年に、好熱菌ATP合成酵素のγサブユニットに遺伝子操作によって葉緑体ATP合成酵素の制御領域を導入して、活性調節が可能な複合体を作成することに成功し、2001年には、この酵素の酸化還元制御を1分子のレベルで観察することにも成功しました。  この研究をさらに進展させるため、2006年に好熱性シアノバクテリアのATP合成酵素の発現系を新たに構築しました。シアノバクテリアのATP合成酵素は、生化学的な性質が葉緑体のそれに非常に近いこと、酸化還元の制御スイッチ部分が欠けていますが、葉緑体の配列9残基を導入するだけで、葉緑体のATP合成酵素とほぼ同様の酸化還元制御が可能になること、など多くの利点があります。2011年には、この新規のシアノバクテリアATP合成酵素を用いた1分子観察実験によって、酸化による酵素活性の抑制がどのような分子機構によるものかを明らかにしました。  また、好熱性シアノバクテリアのATP合成酵素部分複合体は、好熱菌のそれと同じく非常に安定でいろいろな実験に向いています。この材料を採用したお陰で、酸化によって活性が抑制されたときに酵素では何がおこっているのか、とか、この酵素複合体の中ではブレーキの役割をしているεサブユニットがどのような状態の時に機能するのかを明らかにすることが出来ました。

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